愛とドラム

愛とドラム


ちょっと恥ずかしいのですが、ここでは愛とドラムについて考えてみたいと思います。
僕の理想の中に、ドラムを演奏するという行為の中に愛を込めたいという気持ちがあります(できているかどうかは別にして^^;)。
自分のドラムの演奏が善き思いで満たされることが、どんなにか素晴らしいことであろうかと思うことがあります。愛のある演奏は、必ずや多くの人々の心を惹きつけ、自分自身だけでなく、演奏を聴いた人々をも幸せな思いで満たすでありましょう。愛とは与える人も与えられる人も、共に幸福になれる素晴らしい神様からの贈り物かもしれません。へんな話になってしまうかもしれませんが、僕は神様仏様という存在を信じています。ドラムにもドラムの神様がいて、私たちドラマーに善きインスピレーションを与えてくださっていると信じています。もちろん、見たわけではありません。さわったこともありません。確認もできません。ぼくにはそのような能力はありませんが、ときどき感じることがあります。いまドラムの神様が自分に降りてきて、演奏をしてくださっていると。そんなとき、とても幸せな気持ちになり、愛というものの大切さを感じます。愛という言葉を口にすることは、とても恥ずかしくて、はがゆい感じがします。だから本当は軽々しく口にはしたくないという思いもありますが、ときどきがまんができずに、しゃべりまくってしまいます。

愛とは与えること。

ということを教えていただきました。善なる思いで人に接すること。積極的なよき思いでドラムをたたくこと。音楽を聴いている人々に幸せになってほしいと思うこと。それが大切なんだなと感じました。与えるといっても僕にとっては、なかなかできることではありません。どうしてもどうしても自分本位になってしまいます。そういう気持ちを抑えて、人の身になって考えるということは、簡単ではありません。与えるためには資格がいるということなのでしょうね。自分自身に愛の思いがなくて、人に与えるということは、きわめてむずかしいのです。人に対して与えられるということは、それだけ優れた能力や才能、経験といったものがある前提で、さらに強い精神力がいると思います。生半可な気持ちではできないとも思います。
けれど、そのむずかしいことであるからこそ挑戦したいとも思っています。うまく与えることができたときは、与えた相手ではなく、なによりも自分自身がとても幸せな感じがします。みかえりを求めず、相手のために考えることは、実は自分自身の成長につながるんだなあと感じたこともあります。もちろん自分は滅びてもいいから相手を生かすというものではありませんよ。工夫して与えていくという行為が、自分を幸せにし、同時に相手も幸せにするということなのです。また、積極的に善なる思いを現実化するという行為の中に、本当の意味での自分の個性の確立があるような気がします。それが経済原理をともなって豊かになっていくのであれば、それはとても素晴らしいことではないでしょうか。そのような経済発展ならば、仏神もよろこばれるでありましょう。僕はドラムを教えることがとても好きです。そして、このような素晴らしい仕事に出会えたことがとてもうれしいです。僕の生徒も本当にいい人たちばかりで、自分は本当に幸せ者であると思っています。感謝、感謝です。もし許されるならば、これからも全力を尽くしてこの仕事を遂行していきたいと考えています。そして僕のドラムが少しでもあなたのお役にたてたなら、そんな光栄なことはありません。これからも元気にドラムを叩いていきましょう。自分の至らない部分を補いながら、飾ることなく、気取ることなく、ごく自然に、無理なく、愛を与えられるようにがんばっていきます。そこに末永くドラムがあることを祈って。

 

 

 















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